無罪になるのはなぜ?心神喪失と責任能力をめぐる物語

裁判所の判決

重大な事件が報じられるたびに、「心神喪失の可能性がある」という言葉をニュースで見かけることがあります。とりわけ、幼い被害者が巻き込まれるような痛ましい事件では、SNSやメディアでさまざまな声が飛び交います。

「責任がないってどういうこと?」「無罪になるの?」そんな疑問や戸惑い、時に怒りにも似た感情が広がる様子を、私も何度も目にしてきました。

ただ、事件そのものの生々しい詳細に立ち入ることは、被害に遭われた方やご遺族の心情を思えばためらわれます。ここではあくまで一般的な制度の話として、「心神喪失と刑事責任」について、できるだけ身近な言葉で掘り下げてみたいと思います。

「責任能力がない」とはどういうことか

ニュースで「責任能力がない」という言葉を見かけることがありますが、正直、ちょっと分かりにくいですよね。

ざっくり言うと、「自分のしていることが良いか悪いか判断できない状態だった。あるいは、判断できても、それに従って行動を止める力がなかった。」ということになります。

前者を弁識能力、後者を制御能力と呼び、このどちらか(または両方)が失われていると、法律上「責任を問えない」と判断されることがあります。これが「心神喪失」と呼ばれる状態です。心神喪失とは単なる“病気”のことではなく、その人の判断能力や自分を制御する力が、深刻に失われていた状態を指します。

法律ではどう書かれている?

刑法にはこう書かれています。

刑法第39条第1項 心神喪失者の行為は、罰しない。
刑法第39条第2項 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

「罰しない」とは、つまり無罪です。一方、心神耗弱(判断や制御の能力が著しく低下していた状態)の場合は、無罪ではなく刑が軽くなります。

ただ、これは「許される」という意味ではなく、「責任能力がないので、刑罰を科す根拠がない」ということです。医学と法の境界にある、とてもデリケートな判断になります。

実際の手続きでは、精神科医などの専門家が詳しい鑑定を行い、報告書を作成します。

じゃあ誰がどう判断するの?

事件のあと、被疑者や被告人が精神的な問題を抱えている可能性がある場合、捜査や裁判の過程で「精神鑑定」が行われます。その結果などをもとに、大きく分けて次の三つに整理されます。

  • まったく責任が問えない(心神喪失)
  • 一部は問える(心神耗弱)
  • 問題なし(完全責任能力)

とはいえ、これは白黒はっきり決められるような単純な話ではなく、鑑定結果が分かれることも少なくありません。

さらに言えば、鑑定は1回とは限らず、専門家の意見が真っ向から対立するケースもあります。心神喪失かどうかは最終的には法律上の判断とされ、下すのは裁判所です。医師の鑑定に加えて、証言や行動履歴、動機、供述の変遷など、さまざまな角度から責任能力の有無が見ていかれます。

過去の裁判ではどうだった?

ここでは、実際の判断で見えてきた「傾向」を少し紹介します。

  • 事件当時、強い妄想に支配されて現実との区別がついていなかったとされた場合、心神喪失と判断されることがあります。
  • 一方で、たとえ精神疾患があっても、計画的な準備や逃走などが確認された場合、「責任はある」と判断される例もあります。
  • 裁判所は、医師の意見に加えて、行動の一貫性や発言内容なども総合的に見て決めています。

実務では、責任能力の判断において「その人が事件の前後でどんな行動をとっていたか」も重視される傾向にあるようです。

「無罪=自由の身」ではない

ここまで読んで「え、じゃあ加害者はそのまま社会に戻されるの?」と感じた方もいるかもしれません。でも、実際にはそうではありません。

2005年に施行された「心神喪失者等医療観察法」という制度があり、心神喪失などを理由に不起訴や無罪となった場合でも、殺人・放火といった重大な行為をした人については、裁判官と精神科医(精神保健審判員)の合議体が処遇を決めます。具体的には、

  • 指定された医療機関への入院
  • 通院しながらの継続的な治療
  • 社会復帰に向けた支援

といった、医療と観察の体制が用意されています。

参考:心神喪失者等医療観察法|厚生労働省

この制度は、単に「治す」ことだけを目的とするのではなく、社会復帰の支援と再発防止を制度として組み込んでいる点に意味があります。重大な事件を起こした精神障害のある人のその後の再犯率は、一般の犯罪者と比べてむしろ低いとする研究データも報告されています。

法と感情のあいだで

ただ、どれだけ理屈で説明されても「奪われた命」に対して誰も処罰されないという事実は、簡単に受け入れられるものではありません。

一方で、「誰かを罰する」ことと「その人に本当に責任があるか」は、分けて考えなければならない。これは法律の冷たさではなく、人間の理性の証でもあると私は感じます。

だからこそ、今ある制度を「感情で否定する」のではなく、「どうすれば納得できる形に近づけられるか」を社会全体で考えていく必要があるのかもしれません。

これからの課題

今の制度が完璧かと言えば、もちろんそんなことはありません。たとえば、

  • 精神鑑定がどこまで正確か
  • 遺族のケアが十分か
  • 社会復帰への道筋はどうするのか
  • 責任能力の「グレーゾーン」をどう扱うか

また、報道のあり方も重要です。「精神障害者=危険」といった偏見を助長することなく、正確で冷静な報道が求められます。心神喪失という制度を誤解のまま放置すれば、本当に保護が必要な人が支援を受けにくくなり、結果的に新たな悲劇を生む可能性もあります。

まとめ

心神喪失と無罪というテーマは、法と感情のあいだにある、答えの出ない問いを私たちに投げかけてきます。法律が守ろうとしているのは「理性のある社会」であり、同時に、被害者やご遺族の苦しみも決して置き去りにしてはいけません。

「心神喪失だろうが、人を殺したという事実に変わりはないのだから厳罰を」…わかります、私もそう思う瞬間があります。「自分が被害者側になったときに、本当に冷静でいられるのか」…いられないです、絶対に。ただ、だからと言って単純に切り捨てるのも、人としてあまりに理性を欠いた話だとも感じます。矛盾していますが、法の理屈と感情はときに交わらないのです。

どちらか一方に寄りすぎることなく、私たち一人ひとりが「正義ってなんだろう」と考え続けること。それこそが、こうした制度をより良くしていく力になるのではないかと思います。